人の本性と玉ねぎの皮の話

「人の本性は玉ねぎの皮のように何重にも覆い隠されていて、皮を一枚一枚剥くと本性が出てくる」という話を聞いた。しかしこの例え話は、甚だ実態とかけ離れているように思う。なぜなら、玉ねぎを包む一枚一枚の皮こそが、玉ねぎそのものだからである。

玉ねぎの皮を剥けば本当の姿が出てくるのか

良い玉ねぎとは何であるか。あるいは、悪い玉ねぎとは何であるか。例えば、外側が腐っている玉ねぎでも、内側が新鮮ならば良い玉ねぎなのか。逆に、外側の艶が良い玉ねぎも、内側が普通であれば並の玉ねぎなのか。
これらは本当に意味のない議論である。玉ねぎの質は、その内側の性質のみによっても外側の性質のみによっても評価されるものではない。玉ねぎを形成する一枚一枚の皮の全てが、玉ねぎの『本質』そのものなのである。

人の本性について

我々はいつも、他人について、或いは自分自身についてさえも、何か外側からは見えない素晴らしい本性があるはずだ、と期待している。しかしながら、人の本性は実に、外側によく現れている。日常の中の一つ一つの言動こそがその人の性質を形成するほとんど全てなのである。それらを剥がして奥を調べたところで、一体その人の本当の姿など何処にあろうか。
例えば、いつもは温厚な態度の男が、何気ない行き違いで激昂し、暴力を振るったとする。この男の本性は何であろうか。いつもの温厚さが本性なのか、激昂した様が本性なのか、あるいはそれよりも奥に別の本性が眠っているのか。実際のところ、彼の本性は「いつもは温厚だが激昂すると暴力を振るう」という、ただそれだけのことである。もちろんこれが彼の全てではないし、しかし確実に彼の一部である。このように、本性とはその人の在り方一つ一つが重なり合ってできているのではないか。
いずれにせよ、これは本性ではない、これもまた本性ではない、と思いなして、玉ねぎの皮を剥くように人の内側に神秘性を期待していても、実態からは離れるばかりである。

玉ねぎは内側から成長する

さて、玉ねぎの例えになぞらえて、もう一つ面白い話がある。それは、玉ねぎは内側から成長していて、その核心に至っては、常に新しい皮が生まれているという事実である。人の本性は実にこれに似ているではないか。これがその人の本性だと突き止めても、来週には全く違う形に変わっているかもしれない。そして、その変化が最も激しく起きている部分は、その人の最も深奥なのであって、他人からは決して見えない。
そうであるならば、他人について「この人の内側に眠る本性は何か」と考えるのは、実に空虚なことではないか。もっとも重要な部分は時事刻々と変化するのに、それについて一時的に知ったところで、一体どれほどの意味があろうか。むしろ、期待していた相手の本性との矛盾に悩まされるだけなのである。